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私の好きな色 [随筆]



 下手の横好きで「色鉛筆教室」に通っている。油絵のように匂いがないうえに場所もとらず、好きな時にいつでも手軽に描けるところがよい。
 今の段階では、色は36色を使っているが、先生は「このうち、白と黒は使うことが殆どないから、初めからないものと思ってください」と言われた。因みに、12色の色鉛筆セットに白は入っていない。
 画用紙は、紙質の差こそあれ、特殊なものを除いて白と相場が決っている。なぜ白なのか、それはどんな色にでも塗り分けられ、その色を引き立てるためかも知れない。
 白く見える部分は最初から塗り残すように教えられたし、実際、絵を描く場合に限っても、真っ白な対象物はなきに等しいそうである。少女時代に、キイチのぬり絵を塗り分ける楽しみがあったのも、やはり地が白ならではのことだったろう。

 少し哲学的な言い方をすれば、白は「無」である。花嫁衣裳が白いのは嫁ぐ家の家風に染まる心意気を、そして切腹を賜った武士の白装束は文字通り「無」の心を意味している様に思われる。何かに驚いた時、「頭が真っ白になる」という表現を用いるのも「無」に通じるように思われる。

 趣味や稽古事を始める時、教える側は生徒が何の知識も持たないほうが教えやすいと聞く。つまり、
白紙の状態であるほうが、生半可な色に染まってしまっている人よりも、なんでも素直に受け入れてくれるから、ということだろう。

 白を効果的に塗り分けるのはこちらの責任である。真っ白で無垢な心で生まれてきた赤ん坊が、非行少年に成長するか、悪徳官僚に成り下がるか、これは親と周囲を取り巻く大人社会の責任である。白もこの辺りの話になってくると難しく、奥が深くなっていく。

 病床に臥せっていると、さまざまなお花をお見舞いにいただく。病人を元気づけようと、赤、ピンク、黄、紫と色鮮やかな物が多い。だが、そのどれにも、白のかすみ草や小でまりが主役を引き立てるように、必ずと言ってよいほど添えられている。
 何色にでも染まる白、引き立て役でありながら自分を殺すことのない白、自己反省も加えて、私の好きな色といえそうだ。

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 もう40年以上前のお話しです。色鉛筆のあと、大胆にも油絵に挑戦、「作品を持参して来て下さい」
個人の先生に言われ愚作を一点持って行きました。見るなり先生曰く「これは写真を見て描きましたね?」 その通り、でも何故分かったんだろう?「風景をはじめ建物その他、この世に直線というものは存在しないんですよ」なるほどね~、早速帰って狭い庭を描きました。及第点!
 所が、油絵は作品を置く場所にかなりの空間を必要とします。狭い家ではそこに難点が・・・で、諦めました。今、残っているのは3点だけ。ハイ、写真を見て描いたのはチャンと取ってあります( ´艸`)
 キイチのぬり絵、ご存知の方はいらっしゃらないでしょうね?
 貴方のお好きな色は何色ですか???

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ひし(孫とおじいちゃんの会話) [随筆]


 「ねぇ、三菱自動車って知ってる?」
 「近頃、欠陥車で問題になっておる車じゃろう?」
 「じゃあ、菱餅とか菱形、知ってる?」
 「人をばかにしておるのか?知らんでどうする」
 「剣菱っていう日本酒は?」
 「死んだ爺さまの大好物じゃ。じゃあお前、剣菱っていう紋所を知っとるか?」
 「剣先を菱形にかたどったもの、でしょ?」
 「そうか、で、いったいさっきから何をひし、ひしいっておるんじゃ?」
 「じゃあ、最後にひとつね。ひしってな~んだ?」
 「う~ん、菱は菱だ、それでいい。お前は知っておるのか?」
 「今朝ね、テレビ見ていたんだ。そしたら『ひしの収獲が最盛期を迎えています』って言うから、       
  ひしってどんな物だろうって。そしたらさぁ、水生植物で根っこの先に茶色の実が成っているの。
  小振りのジャガイモぐらいかな。その形が、菱形だったのね。茹でて食べると栗みたいにホクホク
  して美味しいんだってさ。あの実の形から菱形が出来たんだな、朝から悧巧になっちゃったよ」
 「そうか~、それはこの年になるまで知らなかったなぁ。という事は、戦国時代に敵が攻めてこない
  ように、道にばら撒いておいた菱も、鉄をその形にしたものだったんじゃ。悧巧になった。
   その土地の人にとっての常識が、こちらの無知につながったいい例じゃった」
 「案外みんなが知っていたことを、僕たちだけが知らなかったのかもね」
 「かも知れんなぁ。これからはきょろきょろ辺りを見回して、新しい発見をするかな」
 「そうだよ、年を取っているから何でも知っているなんて思っちゃだめだよ」
 「悪いが、そこにある天眼鏡を取ってくれ」
 「なにそれ???」  
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 これを書いたのは何年前でしょう、記憶にございません。三菱自動車の問題も闇の中です。
 無責任も甚だしい限りです。でも、菱形については、番組名は分かりませんが、菱の実を
 扱ったものであることに間違いはありません。時代劇大好き人間は、忍者と菱は切っても切れないご    
 縁です。相変わらず、つかみどころのない記事で失礼いたしました。
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義母(はは)と嫁 [随筆]


 ある日、雑談の途中でMさんが唐突に話題を変えて聞いた。

 「あなた、ご長男の奥さまを他人に紹介するとき、何ていう?」
 「う~ん、まあ平凡だけど(長男の嫁)ですかな? あんまりありきたりで抵抗感はあるけど」
 「でしょう?あたしもいやでね、(長男の連れ合い)ですって言うんだけど、何だかこれも落ち着か  
  ないのよ」
 「彼女は私のこと、(義母=ははです)とか(主人の母です)とは言うけど、(姑です)はあまり使 
  わないもんね」

  確かに言われてみれば、姑、嫁という漢字はあるが、話言葉になおした場合、義母(はは)はある  が義娘(むすめ)はない。聞き手は「むすめ」といえば血の繋がった娘だと思うし、義理の娘と紹介すれば、おおかたの察しはつくものの、若しかしたら養女かしら?とも解釈しかねない。

 その点、英語ではドーター・イン・ロウとアドプテッドではっきりと区別されているからやり易い。それならば何故、嫁という言葉にこだわるのか?と反論されそうだ。それは世間一般が嫁姑は未来永劫、厚い壁を挟んでしか付き合えぬという常識にも近い形で両者の関係を受け取っているからである。

 先日も、銀座の小さなスナックで1人昼食をとっていると、隣の席に向かい合って座っていた60代とおぼしき女性2人の会話が、初めから終わりまでこの話題に尽きていた。別に聴き耳をたてていたわけではない。あまりにテーブルの間隔が狭すぎて、お二人の会話は、時折急に声をひそめる以外は否応なしに耳に入ってしまうのだった。

 お定まりの嫁姑不仲ばなし、ご丁寧にもその場に居合わせぬ第三者の家庭の内紛も絡んでいるではないか。「嫁のほうが絶対に悪い!」が前提の会話は、私の食欲をすっかり減退させてしまった。

 人は十人十色、底意地の悪い人もいれば、根は善いのだが感情を上手に表現出来ぬ人もいる。様々な性格の人がいてこそ世の中は面白いし、お互いに協調し合って生きて行くのが大人社会のルールである筈だ。よそではそれが出来るのに、嫁プラス姑=犬猿の仲という特別枠の方程式だけが通用するのはどうも解せない。

 話は飛ぶが、私個人として「嫁」「姑」、どちらも漢字の形からして好感が持てない。女編に取ると書く難しい字もあるらしいが、『家』に入った女では『家』の方が優先する感じが強い。姑が古い女とはなにごとか!!と腹さえ立ってくる。どちらも封建的な武家社会の、いまや過去形の思考の上に成り立った漢字であるに違いない。(だいたい、『娘』がみな良い女とは限るまいに)

 家は二の次、息子個人と縁あって結ばれた人が現代の嫁である。

 親子の関係は、互いにいくら年をとっても変わらない。親の、子に対する責任や身の回りの世話は、相手が独り身のうちは親の務めである。それが愛する息子の面倒を全面的にみてくれる人が現れたのだから、感謝こそすれ文句など言えた義理ではない。

 それに当節の姑は家の中にじっとして、嫁いびりをする暇などない。高齢化時代を反映して、体力、気力ともまだまだ充実している。自分の趣味に、遊びに飛び歩き、息子や娘一家にまでは気がまわらない。頼まれれば孫の面倒もみるけれども、なるべく気儘に、自由過ぎる時間を使いたい、と言うのが大方の現代姑気質ではなかろうか。特に都会ではこの傾向が著しい。

 成長した家族の中には他人が2人いる。自分の夫と子どもの配偶者である。どちらとも血の繋がりはない。繋がりはないが、苦楽を共にする、自分にとって一番近い他人である、と思えば節度をもって付き合っていけないわけはないと思う。楽観的すぎるだろうか。

 若い人たちは、新鮮な知識と刺激を与えてくれる。姑の意識も少しづつ変化してきている。

 昔ながらの方程式が、嫁プラス姑=よき理解者に変化するように、お互いが努力しなければならない時代になった。

 どなたか、嫁を紹介するときに使うよい言葉を見付けてくださいませんか?

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 これは20年近く前に書いたものです。もう現在では嫁姑の関係はあまり話題にならないようで、何よりのこと。当家も円満に仲良く付き合っています。
 

      
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目線の高さ(2) [随筆]



 日本人は白人に比較すると概して背が低い。当然、目を合わせて話をしていても、目線の高低はかなりのものがある。言葉の障害と相俟って、相手を見上げなければ目が合わぬ状態は卑屈さや劣等感と背中合わせのような気がする。
 
 いつも思うことだが、先進国首脳会議サミットで、代表者が横一列に並んでの記念撮影は腰掛けて撮れぬものなのだろうか。体格の差を、胸を一杯に張ることでカバーしているように見える日本代表の姿が、痛々しくさえ感じられるのは私だけだろうか。対照的に、東洋系の相手に対しては、ともすれば見下した態度を取り勝ちな同胞がいるのはその反対、つまり目線の高さがたいして変わらないから自然と自信が湧くということである。

 目を合わせて話し合う大切さの中に、目線の高さが重要なポイントになっていることを、私は犬と孫に教えられた。いや、犬好きの、いまは天国で嬉々として愛犬ウインキー君と遊んでいるであろうTさんに教えられた。

 「頭ごなしに叱る」という表現があるが、親が子どもを叱るときにはその子と同じ目線まで自分は腰を折り、真面目に目を見据えて、しっかりと悪かったところを話してやるべきである。高圧的な叱り方よりもこの方が、子どもも自分の言い分を訴える余裕が出来そうな気がする。

 大きいことはいいこと、かも知れないが、その大きい物を見上げている人間や動物たちがいることを決して忘れてはならないのである。

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 パート1では、私が以前にもこのエッセーをアップしていたとのお知らせがあり、ビックリ!
 書いた当人は全然、覚えていないのです。我ながらビックリでした。
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目線の高さ (1) [随筆]



  人と話をする時には、相手の目をまっすぐに見て、とはよく言われる。

  会話を交わしているのに、目を逸らしながら、目を伏せたまま、或いはあらぬ方を眺めながらと、人さまざまであるけれども、相手をしている当人としてはあまり気持ちのよいものではない。相手の目線の行方が、その人の感情をそのまま表しているようにも思えてくる。
 だが、同じ目を合わせるでも、目線の高低について考えてみたことがあるだろうか?

 夫婦そろって犬好きだったので、結婚してから40年間に4匹のシーズー犬を看取って来た。どの犬も家族の風景にすっかり溶け込んでいた。その折々に気付いたのだが、それは犬が真っ先に親近感を見せる相手は子供、それも幼児に対してであった事である。体格的な相似点もあるだろうが、それ以上に、目線の高さが、一番近いからという理由もあったのではなかろうか。雑用に追われ続けていた自分がこんな事を思いついたのは、ごく最近になってからである。

 ある日、数人の友だちが遊びにきた。すでに年老いた老犬はおぼつかぬ足取りで近付いていき、シッポを振りながら大歓迎である。友人たちは口々に、「あら、可愛いわね~」「大人しいのねぇ~」と言いながら頭を撫でてくれた。

 その時だった。上にキ印が付くほどの犬好きなTさんが、いきなり床にゴロッと寝転がって犬の頭と同じ位置に頭を置き、「いい子ちゃんだね、元気かい?」と彼の鼻ずらを撫でてやったのである。

 犬とTさんの目線が同じになったその時の犬の喜びようは尋常ではなかった。体当たりするように身体全体で嬉しさを表現していた。呆気に取られている私たちに、彼女はこういった。

 「犬はネ、上から見ていられるのが、怖いのよ。高いところから見下ろされているんだもの」

 なるほど、犬の目の高さになって上を見上げてみると、なんと人間たちの巨大なこと、まさに怪物なみである。いくら優しく頭を撫でてもらっても、甘い声で話し掛けてくれても、餌をくれても、人間の大きさが威圧的に迫ってくることに変わりはない。相手が危害を加えないとわかってはいるが、これは
犬にしてみれば不快でありおそろしい。犬が吠えるのにはさまざまな理由があるだろうが、この恐怖心に対するものも含まれているのだろう。

 試みに頭の中で、小型犬の目線の高さで散歩をする自分の姿を想像してみよう。車から吐き出される排気ガスは、顔をまともに直撃する毒ガスである。風の強い日は埃が身体を宙に舞い上がらせる。白い被毛もすぐに灰色に変色してしまう。右も左も巨人だらけだ。

 傍目には平和な犬との散歩も、案外、犬にとっては迷惑千万、ストレスの塊なのかも知れない。

 ようやくそれに気が付いたとき、彼はすでに年老いてしまったが、それからは排泄が終わればあとは抱き上げて、外気だけは充分に吸わせてやったのである。

 ところで、何故いま急に犬の目線なのかと言うと、これと全く同じ状況に置かれているのがハイハイを始めた赤ちゃんではないかと思い当たったからである。
 
 大人が椅子に座り、ハイハイをしている子に向かってどんな笑顔を作って見せてもあやしたも、彼または彼女の目線よりは大人のそれの方が遥かに高い。身体も大きいし、得体の知れぬものが自分を見下ろしているような違和感を感じているかもしれない。ホラー映画の世界である。


 ある日、生まれて9か月になる孫息子が、何が気に入らぬのか、突然ぐずりだした。ガラガラを鳴らしてやっても、イナイイナイバア!をして見せても、哺乳瓶を差し出しても泣き止まない。その時、ハタッ!と思いだしたのが、そう、犬と合わせた目線である。
 相手は人間なのだから犬と同じわけにはいくまいが、ものは試しと彼の横に、ゴロンと仰向けに寝転がってみた。効果覿面!今まで遥か上にあった顔を、反対に自分がいきなり見下ろす立場の逆転に、一瞬おどろいて泣き止んだ彼は、急に安心感を覚えたのかニコッと笑みさえ洩らしたではないか!そして
私の口や鼻をオモチャにしてすっかり機嫌を直してしまった。

 抱っこをすれば、泣いている赤ちゃんの殆どは泣き止んでくれる。大人と同じ目線の高さになったのがその原因のすべてとは言わないが、どこかに関連性があるように思えてならないが如何だろう。

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(日本語を縦書きに出来ないもどかしさがあります。やはり日本語は・・・縦書きですよね。
 文中の孫息子は昨年、結婚しました。光陰矢の如しです。
 次回はパート2ということで。ご拝読、有難うございました。)

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目線の高さ [随筆]



 人と話をする時には、相手の目を真っ直ぐにみて、とはよく言われる。

 会話を交わしているのに、目を逸らしながら、目を伏せたまま、時にはあらぬ方向を眺めながらという
酷い時も、とひとさまざまな場合もあるけれど、あまり気持ちのいいものではない。相手の目線の行方が
その人の感情をそのまま表しているように思えるからだ。

 だが、同じ目を合わせるでも、目線の高低について考えみたことがあるだろうか?

 かなり昔の話である。

 ある日、友達が数人、遊びにきた。もう年老いて大人しいワンは、おぼつかぬ足取りで近ずいて行き、シッポを振りながら大歓迎である。
 「あら、可愛いわね~」「大人しいのね」と言いながら頭を撫でてくれた。

 その時である、上にキ印が付くほどの犬好きのTさんが、いきなり床にゴロッと寝転がって犬の頭と同じ位置に顔を置き、「いい子ちゃんだね、元気かい??」と、彼の鼻ずらを撫でてやったのである。

 犬とTさんの目線の高さが丁度おなじになった時の犬の喜びようは尋常ではなかった。体当たりするように身体全体で嬉しさを表現していた。呆気にとられている私たちに、彼女はこう言った。

 「犬はね、上から見ていられるのが怖いのよ、高い所から見下ろされているんだもの」

 なるほどね~、犬の目の高さになって上を見上げてみると、なんと人間の巨大なこと、まさに怪物並みである。いくらやさしく頭を撫でて貰っても、甘い声で話しかけてくれても、餌をくれても、人間の巨大さが威圧的に迫って来ることに変わりはない。相手が危害を加えないと分かっていても、これは
犬にしてみれば不快であり、恐ろしい。犬が吠えるにはさまざまな理由があるだろうが、この恐怖心によるものも含まれているに相違ない。

 試みに頭の中で、小型犬の目線の高さで散歩する自分を想像してみよう。車から吐き出される排気ガスは、顔をまともに直撃する毒ガスである。風の強い日は埃が身体を宙に舞い上がらせる。白い被毛も
すぐに灰色に変色させてしまう。右も左も巨人だらけだ。傍目には平和な犬と散歩の平和な風景も、犬にとっては迷惑千万、ストレスの塊かもしれない。

 ようやくそれに気が付いたときには、彼はすでに年老いてしまったけれど、それ以降は、あまり人混みの散歩はやめることにした。住宅街に住んでいる者には、せいぜい人通りのない細い道を選ぶことしかできなかったけれど。

 ところで、何故、いま急に犬の目線かというと、それと全く同じ状況に置かれているのがハイハイを始めた赤ちゃんではないかと思い当たったからである。

 大人が椅子に座り、ハイハイをしている子に向かってどんなに笑顔を送って見ても、あやしても、、彼、または彼女の目線よりは大人の方がはるかに高い。身体も大きい得体の知れぬモノが自分を見下ろしているような違和感を感じているかも知れない。ホラー映画の世界である。

 あの日、生まれて9か月になる孫息子が、何が気に入らないのか、突然ぐずりだした。何をやっても、泣き止まない。その時、ハタッと思い出したのが、そう、犬との目線である。

 相手が人間だから、ダメかと思ったが、物は試しと彼の横にゴロンと横になって見た。効果覿面!
今まで遥か上にあった顔を、いきなり自分が見下ろす立場の逆転に、一瞬驚いて泣き止んだ彼は、急に安心感を覚えたのか、ニコッと笑みさえ漏らしたではないか! そして、私の口や鼻をオモチャにして
すっかりご機嫌をなおしてしまった。

 抱っこをすれば、泣いている赤ちゃんの殆どは泣き止んでくれる。大人と同じ目線の高さになったことが全てとは言わないが、何処かに関連性があるように思えてならない。


 日本人は白人に比較すると概して背が低い。当然、目線を合わせて話していても、目線の高低差はかなりのものがある。言葉の障碍と相まって、相手を見上げなければ目が合わないという状態は、卑屈さや劣等感と背中合わせのような気がする。

 いつも思うことだが、先進国首脳会議などで、代表者が横一列に並んでの記念撮影は、椅子に腰かけて撮れないものだろうか??体格の差を、胸をいっぱいに張ることでカバーしているように見える日本代表の姿が、痛々しくさえ感じられるのは私だけだろうか?反対に東洋系の相手に対しては、ともすれば見下した態度を取りがちな同胞がいるのはその反対、目線の高さが大して変わらないから自然と自信が湧くという、おかしな現象、そのどれもが目線の高低差にあるような気がしてならない。

 「頭ごなしに叱る」という表現があるけれど、親が子どもを叱るときは、その子の目線と合うまで腰を折り、真正面に目を見据えて、しっかりと悪かった点を話してやるべきである。高圧的な叱り方よりも、子ども自分の言い分を訴える余裕が出来そうな気がする。

 大きいことはいいこと?かもしれないけれど、その大きい物を見上げている人間や動物たちがいることも決して忘れてはならないのである。

 生き物で一番、ノッポはキリンさんかな?でもね~、あれは弱い生き物、大事にしてやりましょ。

**********************************************
 若いころに書いたものです。
 犬好きのTさんは、だいぶ以前に他界されました。前記事の骨折騒ぎで、もうワンは飼えなくなりました。顔で遊んでいた孫息子は来年、結婚します。何もかもがいい思い出としてのこっています。

 駄文、読んで頂いて有難うございました。(人''▽`)ありがとう☆
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ボランティア活動、経験ありますか?? [随筆]



ボランティア活動、二回ほど経験しました。

第一回目は、「病院ボランティア」それも小児病棟での仕事?でした。

子供、と言ってもまだ頑是ない年齢、親のぬくもりを離れて、入院を余儀なくされ、心細い毎日を送っているに違いありません。

その子供たちと一緒に、歌ったり、本を読んで聞かせたり・・こちらも結構、楽しませてもらいました。

二回目は、香港在住中に赤十字に出向いての仕事。

何と女性の生理用品を作る、如何にも香港らしい???ボランティア活動でした。

無償で人の役に立つ仕事をするのがボランティア活動ですね。

今回の能登半島地震災害にも、沢山のボランティア団体が被災者のお世話に入っているようですが、
先日、テレビを付けてみたら、個人でそれを実行されている有名人お二人を紹介していました。

1人は世界的にも有名なアルピニスト野口 健さん、トラックの荷台一杯になるほどの生活必需品を現地まで段ボール箱に詰めて。ご当人も現地入り。

もう1人は、俳優の杉 良太郎さん。こちらはお手製の丼物を。ホカホカ湯気の立っているのを、完全自腹の炊き出しで被災者に、手渡しておられました。

売名行為だ、との批判にも負けず・・・・さすが~~、チャンバラ大好き婆さんは感動しました。

まあ、金持ちだから出来ることさ、という声も聞かれそうですけれど、なかなか実行に移せるものではありません。


無償で困っている人たちのお役に立つ行動に出る、海外ではかなり普及していますけれど、日本は??

まだまだ、募金に応募するくらいが精一杯、身を持って実行する人は少ないようです。

今日は大真面目な記事になりました。これにて失礼、チョン。


 mejiro.jpg
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何事も根気が一番! [随筆]



そろそろ、復帰しようかな。

指の動きも、感覚は鈍いけれども、FBでは短い感想文など書けるようになりました。

朝から晩まで、指のリハビリ・・ ゲームをするのも中指・人差し指以外は使わない、小さな

チューブなんかも、無理して、時間がかかっても、この二本の指が優先です。

グーチョキパーなんて意味のない事も、リハビリになる、阿保みたいですね。

プラス、脚のリハビリには、毎週2回歩いて通院。用事がなくても、必ず一度は歩いています。

私の毎日、リハビリと根競べです。

ブログ、止めようかなあ~、そんな思いもありましたが、初めて30年、捨てがたい、90才を過ぎて

しまいました。


家に籠って、テレビばかり見ていてもリハビリにはならない、(最近の昼時の時間帯、つまらない~)


話は突然、変わります。「ズッキーニ」ご存知ですよね。 いつの間にこんなに流行りの野菜になった

のでしょう。

もともとは、北アメリカ南部やメキシコと言われていたようですが、それが、イタリア語「zukka」に地

「小さい」の意味をつけたお野菜で、「zukka」にはカボチャの意味あり。

イタリア駐在は5年弱でしたが、かの地で初めてお目にかかり

ました。大好きです。これを薄く切るのも、スライサーなんか使いません。

右手の鈍っている所をなるべく使って薄く切っています。


なんじゃ、このブログは????  もっと面白い内容のブログを次回からは・・・・


(ついでに、nice も受け付けて見ちゃおうかな?  悪趣味??)


次回は、面白い内容、そうだ、西部劇?? 「3人の名付け親」主演、J・ウエインとくれば、監督は

J・フォード、昨日だったかな、面白かった!!

ここまで書いて、右手人差し指の感覚は、悪くはなけれど、殆どありません。

下らない内容でも、リハビリにはなりました。

もうこれで、指のリハビリは充分! 




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敬語 [随筆]



50代前半だったと記憶します。(40年近く前)

当時、日本語教師を仕事としていました。

かなり空間のある部屋に、椅子が数個置かれた教室で数人の外国人に日本語を教えるのが仕事。

ある日のこと「チョット、難しい人が来たんで、相談に乗って貰えませんか?」事務局から。

「難しい人?」? ややこしいの、イヤだなぁ。兎に角会って見ましょう。

 若くて美しい女性が、待っていました。

「初めまして・・私、〇〇と申します。お願いがあって参りました」完璧な日本語じゃありませんか?

「実は、ワタクシ、普通に皆さまが話していらっしゃるような日本語を教えて頂きたいのです」

文句のつけようがないご立派な日本語。なんじゃ、こりゃ??


「日本は、敬語を正しく使えなければ暮らして行けないと、大学で習いました。それで、敬語から

日本語を勉強することになったのでございます。でも、実際にこちらに参りまして、敬語しか

使えない不自由さを感じるようになったのでございます。

どうか、普通に会話が出来るような、くだけた日本語をお教えくださいませ」


 自分が教えているのは、普通の日本語。友人と食事に行くと仮定して、

「なに食べる? お蕎麦がいい?それとも何か他にある??」などと言うのが

「何を召し上がりますか?お蕎麦がよろしゅうございます?それとも、他に何かご希望がお有り

でしょうか?」になってしまうわけです。

確かに、丁寧な言い回しは、何処の国にも存在するでしょうが、それしか使えなくなると???

それは厄介な問題に変貌してしまう。

かなり昔の話なので、はっきりとは覚えていないが、兎に角、頭の回転も速いので、無事、

切り抜けたのは確か。

「先生、有難うございました」で、終了したのは覚えています。


一口に「日本語を教える」と言っても、かなりの肉体労働。日本語以外、一切使わないので、

走ったり、食べたり・・・パントマイムまがいに身体を動かす草臥れる仕事ではありました。

1クラス, 6人がいいところだったように記憶しています。アメリカ人、スリランカ人などなど、

今となっては、懐かしい思い出です。


ついでにもう一人、変わった生徒の話。

こちらは中年の男性。「すみません、ワタシ、tone deaf。レッスンを当家まで来て教えて欲しい」

tone deaf(トーン・デフ) 音痴のこと。幸い家も離れていないし、週2回、週末の約束で引き受けた。

日本語を教えるどころか、教える会話は全部英語。

アリガタヤ、こちらが英会話の勉強をさせてもらったようなものでした。

その奥様が「ワッシーが欲しいけど、何処で買えます?」ワッシー????

説明を聞いて、ああ、和紙ね、それも折り紙、と納得。


肉体労働も伴う日本語教師時代、いま、あの人たち、どうしているだろう。懐かしく思い出します。

最近は日本人でも、言葉の乱れが問題になっています。彼女ほど綺麗で完璧な敬語を使える人、

どれぐらいいるでしょうか??
 

    003.JPG


   
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何とも珍妙な母のプレゼント [随筆]



70年前の話である。

20才を迎えた年のある日、縁側で本を読んでいると、母が「チョット来てくれない?」

「ハイ、これ。貴女も二十歳になったのねぇ。はい、これもう解禁よ」

と差し出したのは、忘れもしない、白地にブルーのショートホープだった。

「貴女もこれからは、立派な社会人なんだから、タバコの1本も吸えないと恥をかくわよ」

狐につままれたとは、まさにこんな状態ではなかろうか。しかも、母は箱から1本抜き取ると、

馴れた手つきで、火をつけて吸い始めたではないか!

「え~~ッ、お母さま、タバコを吸っていたの??」

「うん、みんなに隠れてね、(* ̄▽ ̄)フフフッ♪」

「隠れなくたっていいじゃないの?」

「だって、お父さまは吸わないしアタシだけが、スパスパっていうのもねぇ、やりづらいものよ」

当時、我が家は渋谷の祖父の家に同居させてもらっていた。 祖父は煙管を愛用、堂々と煙を

くゆらせていた。

だが、女性の喫煙は、特殊な職業の人は別として、「はしたない」と決めつけられていた時代

だった。どうやら祖母は、ドボン式のトイレで隠れて吸っていたようで・・・となると、これは

遺伝なのかも知れない。ご不浄の秘めたタバコの匂いは、よからぬ行為と結びついていた。臭気

を消すためだったとすれば、祖母はいつも番茶を火にくべていたなぁ・・・・


消えぬ疑問を抱きながら、同居生活も終わり、いつのまにか、自分も祖母の煙草の件は忘れかけて

いた折りも折り、20才を迎えた(今で言えば成人の日、突然の母の言葉に、うろたえても、

致し方なかったのは当然であった。

父は一切、煙草とは縁がない、嫌いではないのかも知れないが、軍人さんだったからのようである。

のちに父に尋ねてみたことがある。

「お父様はどうして、タバコを吸わないの?」

「軍人でタバコに取りつかれたら、前線に配置されたときに、苦しむからさ。

 タバコは吸いたい、けど、最前線の塹壕の中では、タバコの火さえ敵の標的になる。そんな

 現実を知っているから、初めから吸わないのさ。それほど好きでもないし・・・」

 なるほどね~。

 母がなぜ、私にタバコをくれたのか、その唐突さにはいささか戸惑ったが、今になって思えば、

 母はタバコ仲間が欲しかったのだろう。明治生まれの母は、自分が持っている罪悪感めいた物を

 半減できると思ったのかも知れない、そうに違いないと私は断定した。

 蓮っ葉な女がすることよ、と世の親たちが娘の喫煙をいましめるのが本当なのに・・・

 思いもよらぬプレゼントでタバコの味を教えてもらった。


 結婚した相手が、ヘビースモーカーに近い愛煙家だったのが幸いして、誰に気兼ねをするでもなく

 スパスパやっていたのが、ある日を境に、突然の禁煙宣言、どうも具合が悪い、食後だけの

 3本がいつの間にか夜の1本だけになり、1人だけスパスパは吸いずらい。

 等々、タバコとはすっかり縁がきれてしまった。

 最近、へりましたねぇ、近所でも2軒ほど、小さなタバコ屋さんが閉店。

 20才といえば、成人式、お揃いで買ったような白いフカフカの肩掛けの和服姿もめっきり、

 減ったような気がしませんか?


   画伯狂乱.jpg




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